11月 月例祭
2012.11.18(日)
この日は晴れたり曇ったりしながらも秋の深まりを感じられるようなお天気でした。
参加の先生方は高住職、林副住職、鶴田先生、川本先生、大隈先生でした。
法要の始まりに塗香(ずこう)を配っていただきました。
塗香は身を清めます。
法要が始まってからは、高先生が聖水にて結界(この場合はお寺の護摩堂)の中を清めます。
上の写真がその様子です。
前のほうに座ると、時々その聖水をいただくことがあります。
読経もよく聞こえますし、信者様は遠慮しないで前のほうに座っていただくといいですよ。
この日は護摩供養でした。火が入ってしばらくすると煙が立ってきます。
般若心経をみんなで一緒に読経する間に火はどんどん大きくなってきます。
いろいろな願い事が煙にのって仏様のところに届けられるのでしょうね。
さて、高先生の法話ですが、この日は次のお話が心に残りました。
「私達は日頃正しい目と耳を持っているつもりで 実はそうではありません。
正しいことを見ているつもりでも正しく見ていないのです。
正しいことを聞いているつもりで正しく聞いていないのです。
(中略)
正しい目で見る、正しく聞くことができるようになりましょう。」
人それぞれに受け取り方は違ったかもしれませんが、私は思い当たることがありました。
「私は正しい。間違っていない。」という心で物事を一面からだけ見てはいないか。
「あの人がこう言ったからこれが正しい。」と信じ込んではいないか。
真贋というものは自分の我や、他人の言葉というフィルターにかかると簡単に曇ってしまうものです。
本来の姿と違って見えるのは思い込みであったり、そうあってほしいと思う心からも起こります。
自分が聞きたくない事を言われたときには「でもあの人だってそうしたのに」などと自分の都合のいいほうに
話をすり替えてしまいがちです。
では「正しく見る。正しく聞く。」は果たしてできるのでしょうか。
再び高先生の法話です。
「毎日私は仏様にお祈りしていますが、それで皆様が救われることはありません。
皆様が毎日幸せにと思ってお祈りしてもそうならないのです。
(中略)
それで、なぜ皆様はここにこうしてお参りに来られるのでしょうか。
皆様はここでお参りするという修行をしに来られているのです。」
この言葉こそが答えなのですね、
自ら足を運び、真摯な心で手を合わせる。自分の心のうちを仏様に聞いていただく。
人の話を聞くのではなく、仏様に心のうちを聞いていただくことが問題を解決に導くことがあります。
決して仏様は何も見せてはくれず、何も語ってはくれないのですが。
私達の生活は全てが修行といっても過言はないと言われます。
同じ修行を楽しみを見つけながら行うか、苦しいと思っていやいやするか、なのだそうです。
例えば人の嫌がる仕事を引き受けてその仕事を全うした場合、「ありがとう」、や「ご苦労様」、の言葉は
ごほうびになり、人に喜んでもらうことで辛かったことは報われます。(報われないことも多かったりしますけれどね。)
同じことを人に押し付けて自分は免れたと喜んでしまうと、きっと味わえないことでしょうね。
お寺や神社にお参りに行くことも、簡単な人もあれば、なかなか行けないという人もいることでしょう。
昔、私も、必要があって毎日参尊寺にお参りさせていただきました。
そのときはしんどくても毎日お参りに行くことができました。
逆に最近は体調を崩して、月に一度の月例祭にも行けないこともありました。
私自身、修行のチャンスを失っていたこともあったでしょう。
法話からはいろいろなことを気づかせていただくことができます。
皆様、ぜひお寺にお参りになって生のご法話をお聞きください。
あなたに必要な言葉をいただくことができるかもしれません。
この日は、午前中まで本山の上堂奉仕に行かれていた林先生が遅れて参加されました。
本山では秋の特別拝観があり、紅葉の時期も重なって吉野には大勢のお客様が来られているそうです。
同じ週に大隈先生も本山の上堂法師に行かれていたそうです。
先生方もご自分の時間を作って修行に行かれています。
私達もできる修行をさせていただきたいものです。
法要の後、いつものようにみんなでお餅やキムチ、卵焼きにフルーツをいただきました。
おいしいものをいただいて楽しい時間となりました。
寒さに向かいますが、来月もまた元気でお会いできますようお祈りいたします。
合掌